宮古芋の生ケーキ 宮古芋の歴史
それは今から四百年余り前、
中国からはるばる海を渡って伝わってきた
芋かずらから始まりました。
痩せた土地で、不順な天候でも育つ芋は、
飢饉で苦しむこの島の
多くの人々の命を救いました。
やがて、その芋は沖縄から海を渡り、
九州を経て全国へと広がっていったのです。
長い歴史が刻まれている
宮古芋の物語。
日本でいちばん早く
芋の栽培が始まったこの島で、
今、新しい物語がはじまっています。
「私が住むところ」宮古島
沖縄本島から南西に約300km、太平洋と東シナ海の間に浮かぶ宮古島。真っ白な砂浜に縁取られ、美しいサンゴ礁の海に囲まれたこの島は、全日本トライアスロン宮古島大会をはじめ、さまざまなマリンスポーツが盛んな「スポーツアイランド」として全国に知られています。「みやこ」とは、島の古い言葉で「自分自身が住んでいる場所」という意味で、島の人々は昔から、自分たちの島に誇りをもってくらしていました。15世紀以降、宮古島は琉球政府の支配下に入りますが、芸能、伝統工芸など、宮古島独自の文化は、今も脈々と受け継がれています
‐芋の神様‐
宮古島市の平良西仲宗根には「芋ヌ主御嶽」(ンーヌシュウタキ)という一風変わった名前の拝所があります。ここには、中国から芋を宮古に伝えた砂川親雲上旨屋(うるかぺーちんしおく)を「芋ヌ主」(ンーヌシュ)=芋の神様として祀ってあります。
1594年、村の役人を務めていた旨屋は、公務を終えて首里から宮古へ帰る途中、逆風にあって中国に漂着しました。三年後の1597年、旨屋は中国で栽培されていた芋かずらを宮古へ持ち帰って芋の栽培普及につとめ、島の人々を飢饉から救ったといわれています。沖縄本島では、野国総官(のぐにそうかん)が1605年に中国から芋の鉢植えを持ち帰り、その後、儀間真常(ぎましんじょう)が栽培の普及につとめましたが、宮古島では沖縄本島に先んじて芋の栽培が始まっていたとさています。
沖縄で広まった芋は、18世紀のはじめに薩摩(鹿児島)に渡り、やがて全国へと広まっていきます。当時、度重なる飢饉のなかで、芋は大切な食料として多くの人々を飢えから救ってきたのです。
中国から伝わった沖縄では「唐いも」、沖縄から伝わった薩摩では「琉球いも」、薩摩から広まった日本では「薩摩いも」と呼ばれているように、芋の伝播の歴史は、その呼び名に現れています。
戦後間もないころまで、毎年8月に初芋を捧げるンーブース(芋の豊作感謝祭)が行われていました。今でも地域や芋栽農家の方々が参拝に訪れます。
収穫したての宮古芋の断面。紫色はアントシアニンの色です。宮古芋は紫色がとても濃いのが特徴です。
どんな農作物でも手をかけなければいい作物には育ちません。土作りから灌水、除草対策、日当たり、虫の防除と、収穫までやることはたくさんあります。私が作っているイモは紫色が濃く、ケーキに使うと色がいっそうひきたちます。